得たから失ったのか、得るために失うのか
2004年1月27日「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには同等の代価が必要になる。それが錬金術における等価交換の原則だ。その頃僕らはそれが世界の真実だと信じていた。」
「鋼の錬金術師」冒頭のアルのモノローグ、最初はよく判らなかった。
前々回だったかにマルコーが「錬金術の等価交換はこの世界の宗教的価値観」とか言ってたので判ったけど、第16話でのおじいさんの科白といい、物理法則であるはずの等価交換がこの世界の価値観にまで及んでいるということらしい。
「等価」交換という言葉には、全てを価値的に理解しようとする“うさん臭さ”を感じる。作品中はもちろん、それ以外でもあんまり見たくない気分(シャレで使う人多いけど・笑)。
その最たるものが、スカーがエドの右腕を破壊したときの会話とか、もしエドが殺されたら自分も同じこと(復讐)をする、それが等価交換でしょ、と言ったアルの科白だけど。
物理法則ならまだしも、価値観として「等価交換」が持ち出されるような世界はイヤだな。
物質だったら「等価」という客観的な把握がある程度は可能だけど、それだって、人によって異なる価値把握がされることも多いのに、ましてや命やら魂やら、悲しみやらを客観的な価値で把握するなんてできる訳もない。
それに、何かを得るためにその代価(と目されるもの)を失わなければならない、という発想も私は受け付けない。諦めるための言い訳じゃないのか?
どうしても両方を手に入れることができない場合、自分にとって価値の低いものを自らの意思で犠牲にして、より価値の高い何かを得るという方が私には判り易い。あるいは、自分にとってより価値のある何かを得るためには、他の何かを犠牲にするだけの覚悟が必要だ、という程度の精神論的な一般論なら判る。
試験に合格して資格を得ようとするなら、アニメを観るのもほどほどにしないとってことだね(笑)。
そんな怪しげで非人間的とも思える価値観が支配するこの作品世界は、なんだか閉鎖的で歪んでいるように感じる。その世界の閉鎖性をぶち破るのがエルリック兄弟なんだろうか?それとも、錬金術での等価交換の原則をぶち破る「賢者の石」?
「鋼の錬金術師」冒頭のアルのモノローグ、最初はよく判らなかった。
前々回だったかにマルコーが「錬金術の等価交換はこの世界の宗教的価値観」とか言ってたので判ったけど、第16話でのおじいさんの科白といい、物理法則であるはずの等価交換がこの世界の価値観にまで及んでいるということらしい。
「等価」交換という言葉には、全てを価値的に理解しようとする“うさん臭さ”を感じる。作品中はもちろん、それ以外でもあんまり見たくない気分(シャレで使う人多いけど・笑)。
その最たるものが、スカーがエドの右腕を破壊したときの会話とか、もしエドが殺されたら自分も同じこと(復讐)をする、それが等価交換でしょ、と言ったアルの科白だけど。
物理法則ならまだしも、価値観として「等価交換」が持ち出されるような世界はイヤだな。
物質だったら「等価」という客観的な把握がある程度は可能だけど、それだって、人によって異なる価値把握がされることも多いのに、ましてや命やら魂やら、悲しみやらを客観的な価値で把握するなんてできる訳もない。
それに、何かを得るためにその代価(と目されるもの)を失わなければならない、という発想も私は受け付けない。諦めるための言い訳じゃないのか?
どうしても両方を手に入れることができない場合、自分にとって価値の低いものを自らの意思で犠牲にして、より価値の高い何かを得るという方が私には判り易い。あるいは、自分にとってより価値のある何かを得るためには、他の何かを犠牲にするだけの覚悟が必要だ、という程度の精神論的な一般論なら判る。
試験に合格して資格を得ようとするなら、アニメを観るのもほどほどにしないとってことだね(笑)。
そんな怪しげで非人間的とも思える価値観が支配するこの作品世界は、なんだか閉鎖的で歪んでいるように感じる。その世界の閉鎖性をぶち破るのがエルリック兄弟なんだろうか?それとも、錬金術での等価交換の原則をぶち破る「賢者の石」?
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